PE'Zが…?

まずはこれを読んでほしい。

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著作権。何とも難しい問題である。PE'ZはJASRACからは認可してもらったが、「編曲」は作曲家及びその権利者から認可を得ずに勝手にしてしまった、というので訴えられたというのが概容。はじめは「そういうもんかな」と思ったが、だんだんこの事件に対して猜疑の念が浮かんできた。以下、後半部分の引用。

佐藤氏の主張は「ペズの音楽は、許可なく意に反して編曲したもので荘重な曲のイメージを著しく損ね、著作権者の権利を侵害した」というもの。そもそも佐藤氏は自身の作品について一切の編曲を認めていない。

 東芝EMI側は「演奏家の自由と独自の芸術性を否定するもの。特に即興を根幹とするジャズの存在にかかわる」と最初は真っ向から争う姿勢でいた。が、ペズが「片思いでした」と、請求内容を全面的に認めたため、東芝EMI側も同意、佐藤氏側も訴えを取り下げた。

 訴訟問題は幕を下ろした形となったが、「楽譜に書かれた形だけが音楽なのか」とジャズ界から意見が続出。一方、佐藤氏側も「余りにルーズに扱われる著作権や人格権に関し、その重要性を知らしめる意味でも、裁判で一石を投じたかった」と言う。クラシック好きのジャズマンが発したアドリブは、意外な余韻を残しそうだ。

はじめに断っておくが、僕はPE'Zが嫌いだ。薄っぺらなサウンドのただのインスト集団というのが、目下の僕のPE'Zに対する見方である(ベースとドラムはまあまあ上手いと思うが)。というか、勝手にPE'Zを「ジャズ」と勘違いしてるファンが嫌いだ、というのも多分にある。敢えて言う。ジャズとは「即興演奏を含み、かつそれに主眼が置かれた音楽ジャンルの総称」である。彼らのサウンドは「ジャズっぽい」だけであり、またそれだけなのだ。アドリブの無い(書き譜だろ?)(訂正:短いがアドリブも取るらしい。誤解していた。でもそれに主眼が置かれていないことは明らか)文字通りただのインストである。まあ、こういった彼らの音楽スタイルが嫌いだと言うのもただの僕の音楽の好みの問題だ。(言うまでもないことかもしれないが、PE'Z自身、「僕らはジャズを演奏しているのではない」と「Jazz Life」という雑誌で公言している、はず)
とは言うものの、今回のPE'Zの「大地讃頌」はなかなかのものだ、と思っていた。編曲も上手いと思ったし(演奏はいまいちだったが)、なにより取り上げる曲が曲だったから、相当インパクトが強かった。この「大地讃頌」という曲、僕も非常に好きな曲であり、中学生の時に危うくピアノ伴奏を弾かされそうになったのを思い出す(ああ、当時はまだピアノが弾けたのだ)。
一般的に有名な曲のカバー(本当はあまり「カバー」という言い方は好きではないが)をするという動機には、大雑把に分けて二つあると僕は思う。一つは「良い曲だから自分も演奏したい」であり、もう一つは「その上で原曲と異なる解釈を提示することによって演奏者自らの能力をアピールしたい」というものだろう。こういった動機をもってある楽曲を編曲し、またカバーをするということは演奏者の「権利」といっても差し支えないものではないだろうか?もちろん「この曲を演奏しますよ」という認可は得なければならないが、「この曲を編曲しますよ」という認可は得ずとも編曲できるようにならないものだろうか。「この曲は作曲者の許可無しには編曲を認めない」という規定は、演奏者の表現を著しくスポイルするものだと思う。そういった意味で、東芝EMIの「演奏家の自由と独自の芸術性を否定するもの」という主張は最もだと言える。
そもそも、音楽は楽譜だけでは音楽にならない。演奏者あってこその音楽である。この「大地讃頌」の作曲者の佐藤先生という方は、「自分の頭の中にある曲が100%の演奏で、演奏者はそれを再現するだけの道具」と思っているだけなのだろうか?そういった気持ちも理解できなくはないが、「ペズの音楽は、許可なく意に反して編曲したもので荘重な曲のイメージを著しく損ね、著作権者の権利を侵害した」と表明するのはあんまりだろう。もちろん現時点では「許可無く意に反して編曲した」ということは咎められるべきことなのだろうが、「荘重な曲のイメージを著しく損ね」というコメントは音楽家としての神経を疑われても仕方のないものだろう。あんた、彼らが自分の曲をどんな感情を込めて演奏していたか、聴いてわからないのか?…とここまで言うのは妥当ではないのはわかっている。
とにかく、編曲権と同一性保持権に関しては現時点では制度の問題だ。作曲家がこういった権利を主張すること自体が馬鹿馬鹿しい。有名なホルストの「惑星」でも同じことだ。頭の中の音楽にばかり束縛されて、「リアル」の音楽に対してなんのかんのとけちをつけるというのはおかしい。作曲者の権利ばかりが先走りし、本来の音楽の持つ自由というものをないがしろにしている。しかし、「ゲージツ」好きの芸大が絡んでいることからもおそらく日本ではこの制度は変わるまい。残念なことだ。(追記:この部分は少し言い過ぎだとあとで思った)
最後に、原曲のファンが意固地になるのもわかるが、こういったカバーやら何やらが演奏家、聴き手の新しい感性を養い、また素晴らしい音楽が生まれる素になるのだ、と僕は主張したい。ある楽曲の、異なるヴァージョンの演奏は奨励されるべきである。人間個人のアイデンティティが他者との関係を通すことでしか獲得できないのと同様に、ある演奏も他の演奏と比べることでしかその存在を維持できないのだから。
もう一つ最後に。PE'Z、お前らもうちょっと上手くなって見返してやれ。今のままだとちょっとキツイから。…応援してるんだか何なんだか。