著作者人格権について思う

こないだの続き。

つまりは、作曲者の佐藤氏が「私の曲を無断で勝手に商業利用目的の為に編曲して演奏し、なおかつそれが私が作った荘重な曲のイメージを損なうものだった」としてCDの出荷停止を訴えて、PE'Zもそれを受け入れて謝罪した、ということ。それに関して、僕が「確かに法律で決まっている手続きを取らなかったPE'Zが謝罪するのは当然だけど、なんかこの法律ってやつの影響力が強すぎて、やだねー。なんとかならんかな。このままだと、ましな音楽が生まれなくなっちゃうんじゃないの」とけちをつけた、という流れ。
25日の文章を書いた後に色々と考えてみたが、僕の基本的な考えが変わったということはない。でも、問題の「著作者人格権」については、ある一定の理解が示せるようになった。自分の作った作品を許可しない他人に勝手にいじくり回されたくない、と創作者が主張すること、やはりこれは尊重されるべきものなのかと思えるようになった。やっぱり僕自身ジャズという音楽を愛聴していて、色々な他ジャンルの曲をジャズアレンジして演奏している演奏を聴く機会が多いものだから、無断で編曲される側の気持ちになってものを考えるということが難しくなっていたらしい。
話は変わるが、作曲は難しい。優れた作曲をするためには、音楽理論を学ぶだけではだめだ。語学で言えば文法を学んだに過ぎない。それを使って文章を作ること、これがすなわち作曲に当たるだろう。そして音楽理論を学んだ誰もが初めから自由に曲を書けるわけではない。ある典型的な曲の構成、コード(和音)進行などを学び、その枠組みの中で「とりあえず自分が良いと感じるままに各々の音を当てはめて」いくというのが作曲の初期段階である。語学で言えば、構文を覚えてそれに単語を当てはめることと同列だろう。そして、さらにステップアップするためには過去の作品の中から自分が良いと思ったものを分析し、それを「自分だったらここはこう作るなぁ」と改変したり、あるいはその分析結果から特徴的なエッセンスを利用して自分の作る曲に反映させたりする。それらを繰り返して作曲家は自分なりの作曲方法を確立し、いわゆる「個性的な」曲を書けるようになるのだ。僕は作曲というものをしたことがないので、以上は憶測に過ぎないのだが、大体はこのようなものだと思う(どなたか詳しい方がいたら修正意見、補足意見を下さい)。
ここで重要なのは、高度な「作曲」をするためには、既に存在する曲を「『自分だったらこう作るなぁ』と改変」する作業、すなわち「編曲」が練習過程として必要であるということだ。過去の偉大な作曲家の名曲を参考にし、その技を盗む。盗んだ上で、それに自分なりの解釈を加える。楽器編成を変えたり、構成を組み換え、省略したり。「編曲」にはこういった目的も存在するのだ。決して既存の曲調と別のものに変える、というものばかりではない。
問題は、この練習という目的にも使用されうる「編曲」がどこまで許されるか、ということである。作曲の練習者が自宅で一人で、というのは「あり」か?それならそうやって編曲したものを実際に非公式の場で演奏するのは?入場料を取らないコンサートでは?そして商業的利用は一方的にアウト、とすることが果たして正しいのだろうか?僕が問いたいのはこの部分である。こうした部分に関して、現行の法律では僕の足りない頭で必死に解釈すれば、「著作者は、その著作物及びその題号の同一性を保持する権利を有し、その意に反してこれらの変更、切除その他の改変を受けないものとする。」という著作権法第20条(http://deneb.nime.ac.jp/cgi-bin/lawview.cgi?n=A118より)の文章から、「全部無理」だということになる。必ず著作権者の許可を取れ、ということだ。え?でもそれってけっこう無視されてると思うのだけど。まあなかなか難しいが、100歩譲ってそれには納得することにしよう。でもその原曲の著作権者は、自らが作曲家となるべく編曲を通して勉強していた時に、全て許可を取って編曲をしていたのか?していたのだろう。そうでなければ話がおかしいからだ。おかしいったら。
段々と内容が子供じみてきたので方向を修正するが、僕は「現代の全ての創作は、二次創作である」と言っちゃうような悲観主義者ではない。僕はこう言おう。「全ての創作は、未来の創作のためにある。」確かに「第九」も「大地讃頌」も「イエスタデイ」も「世界に一つだけの花」もそれ自体は完成された曲だ。しかし言うまでも無く、それらの曲が書かれ得たのは、過去にその曲を作曲家が書けるようになるために学んだ、それ以前に書かれた曲や音楽理論の存在があったからなのだ。そしてそのように書かれた曲は、未来の優れた創作のための糧となりうる。そういった意味で現時点で存在している創作物の全ては、人類が生れ落ちてから絶滅するまで絶え間なく続くであろう「創作史」という一本の線を構成する一つの点に過ぎない、と僕は思う。そういった意味で、「私の創作物は改変しないこと」という宣言は、この線を途切れさせる行為に等しいだろう。
このように思うから、僕は「『勝手に』私の作品を変えるな」という文言に過剰に反応してしまうのである。許可を取ればいいのだ、とはわかっていても。うーん、難しい、難しい。