PE'Zの件、大地讃頌その後

あんまり盛り上がんないな。もしかして小林亜星のパクリ事件とかと同列に扱われてるんだろうか。全然違うんだってばー、と言いたい。

この件で色んなページを覗いていて、chorusitigoさんのページで色々と書かせてもらった。
hp-chorus : http://choruitigo.exblog.jp

ここでchorusitigoさんが今回の事件について意見を書いてくださった。前半部分が上手く整理されていて、非常に参考になる。まさにこの通り、です。僕なんかは(負の)感情が先走りすぎてしまって、なかなか客観的にまとめられなかったので…。やっぱり許可をJASRACとは別に取らなければいけなかったのを怠ったのが全て。ここに関しては意見が一致します。ここに佐藤先生の具体的な音楽観など、詳しい情報もあったらさらに面白くなりそうです。
で、その後にPE'Zの大地讃頌批判を繰り広げられているわけですが、至極もっともな意見ですね。もともと作曲者は合唱曲として演奏されることを意図して曲を書いたのだから、それを器楽曲として演奏するのは無意味で、軽薄だ、とのこと。確かにその通りで、佐藤先生もそのように思っているのだと思います。
ただ僕の意見としては少し違うところがあります。確かにPE'Zの演奏は陳腐ですが(笑)、彼らのした、歌詞を抜いての演奏に全く意味が無いということは無いでしょう。大地讃頌から歌詞を抜くとはどういうことか。それは、大地讃頌という曲に別の面から光を当ててみるということです。曲そのものの持つ音列を歌詞の束縛から解放し、それを再構築したのがPE'Zの大地讃頌です。この過程は歌を歌う人から見れば暴力的に映るかもしれません。作曲者の意図を無視している、と。しかしその暴力を持ってしてでなければ、この曲の新しい魅力を引き出すことは困難でしょう。いわば、PE'Zは作曲者本人も気付かなかった魅力を引き出そうとしていたのではないでしょうか(買い被りすぎかも)。そういった試み自体に価値があるのではないか、僕はそう言いたいわけです。
ではPE'Zの演奏が新たに引き出した大地讃頌の魅力とは…というと、PE'Zの力量不足もあってなかなか伝わってきません。でも、4/4から6/8に拍子を変えたのを生かしたエンディングの管楽器とリズム隊のポリリズムの豪華さや、わざとテンションノートを加えた和音作りなんかは「お、すげえ」と思わせるところがあります。やっぱりこういった表現は歌だと困難ですし。それに、ドラムの存在がやはり大きい。このドラム、盛り上げるのがめちゃくちゃ上手い。特にエンディング前のフィルはすごい。合唱では不可能な表現を、本来は使われない楽器を使うことによって上手く際立たせた、好例なのではないかと個人的に感じました。とはいっても全編を通じて管楽器がヘタレなので全体の仕上がりとしては赤点もいいところですが。(何度も繰り返し聴いているうちに段々かっこよく聞こえるようになってきた、笑)それにエンディング後の付け足してある部分は余分だ。
それに歌から歌詞を取って曲だけ素材として使う、というのはJAZZでは当たり前です。歌詞の有無うんぬんというのは総体としての音楽からしてみれば、ちっぽけとまでは言いませんが、そこまで固執するほどの問題ではないとJAZZをやってる僕からしたら思うのです。でも、歌を歌ってる人たちの側からしたらそういうものでもないのだろうなあ。難しいものです。って、最近「難しい」ばっかりだな。