携帯のカメラ

カメラ付き携帯というやつが苦手だ。もう生理的に嫌いだと言ってもいい。一度、観客として行ったライブで隣の女性が電子音を鳴らしながら写真を撮ってるのを見て以来だ。僕の携帯は旧型なので付いていないのだけど、次に買い換えるときはカメラ付きじゃないものを買うか、カメラ付きでも全く使わないかどっちかになりそうだ。そもそも別にデジカメ持ってるというのもあるけど。
ところで、カメラ付き携帯の登場で、もはや日本人の約半数が常にカメラを携帯していると言えそうだ。ある意味、非常に気持ち悪い。これだけの人口がカメラを携帯していると、異様なことが起こる。
一昨日、一番町の藤崎の前で映画「スイング・ガールズ」のプロモーションイベントで生ライブがあって、僕は偶然通りかかった。面白そうなので見ていくことにし、俳優兼演奏者の登場を待っていた。そこでアナウンス。「演奏の録音や写真撮影はご遠慮ください」という例のあれである。でも簡易ステージにプレイヤー達が上って演奏を始めたとたんに、観客の中の一人が携帯のカメラであからさまに写真を撮り始めた。そして、大勢がそれに続いた。異様な光景だった。主催者は半ば黙認状態だった。
僕がここで疑問に思うのは、いかにも日本人的なマナーの悪さについてではない(それは全く別問題)。彼らは一体何を画像データに変換、そしてわざわざ保存しようとしているのかということだ。俳優の顔? 演奏している人の姿? いやもちろんそれらもあるかもしれないが、本質的にはその答えはレンズの向こう側には無く、こちら側にある。まさに撮影している自分がそこにいたという証拠を彼らは欲しがっているのだと僕は感じた。
もちろんそれは写真全般にも言えることかもしれない。自己がそこに存在していたことを証明するために撮影する、そういう要素は撮影と言う行為において普遍的であるという気さえする。とはいえ、その場における「チロリーン」の嵐の中では、その証拠集めの作業が歪んだ醜いものに思えた。自分も写真を撮るのが当分嫌いになりそうだ。
えーと、ここで僕が次に何の話に繋げたいかお分かりでしょうか。そうです、定禅寺ジャズフェスティバルの話をしたいんです。
定禅寺ジャズフェスティバルはストリートの音楽祭である。動員数は10万人以上。これほどの規模の祭事の中では、楽器を持ってステージに立っているだけでどんな人でも誰かのカメラに映ってしまう。別に僕が自意識過剰なのではなくて、冗談抜きであのフェスティバルに参加することは不特定多数の人々の被写体になってしまうということを意味しているのだ。すなわち自分が、自分を被写体にして写真を撮ったどこの誰かもわからないような人がそこにいたことを証明する役割になってしまうということ。ちょっと考えたら不気味だ。また自分が被写体にならなくても、誰かを撮ろうと携帯を持って画面を眺めてる人たちの列を見るだけで萎えそうだ。そしてまた「チロリーン」の嵐。
うん、なんかもう、嫌になってきた。


追記:「スイング・ガールズ」の女の子達は、みんなかわいかったな、うん。