シンポジウム「ブンガク畑でつかまえて――外国文学の楽しみ――」

このシンポジウム、定員225名の会場は立ち見が出るくらいの大盛況であった。パネリストの面々を見れば明らかなのだが、さながら日本外国文学アカデミズムオールスターズだ。感想からいくと、やはり非常に素晴らしいシンポジウムだった。司会は柴田元幸英米文学)。まずはパネリスト1人1人が順に自らの専門分野、好きな作品の一部の朗読をしていった後に、それらについてのお互いの感想、最後に聴衆とのディスカッション、という進行。会場は学生のほか、多数の一般人(お年を召した方も多かった)で埋め尽くされていた。
今、僕の手元にシンポジウム中に取ったメモがあるのだが、失くさないうちにコピーしておこうと思う。うろ覚えなので違っているものも多いと思うが。

  • 周縁というのは、中心を飛び越えることのできる存在である(池内氏)
  • 翻訳をやっていなかったら、今のように日本語のことを真剣に考えているかどうかわからない(堀江氏)
  • 「書く」ということは前向きなことだ。その内容がどうしようもなく破壊的、破滅的、悲惨なものであったとしても、「書く」という行為は前向きなものだ(堀江氏)
  • シンプルであるということは容易なことではない(堀江氏)
  • 自分が会ってきた人間についてもっと知りたい(中村氏)
  • 物語はパフォーマンスである(中村氏)
  • 「亡命者」にはニヒルなイメージがあるが、「難民」「移民」といった言葉にはマスのイメージがある(中村氏)
  • 訳のトーンが大事なんだ(柴田氏)
  • 「文学」というのは少し気恥ずかしい(沼野氏)
  • 社会の大きな流れに対抗できるのが「文学」(沼野氏)
  • 問題は書き手の声が伝わるかどうかだ。声が伝わる翻訳がしたい(発言者不明)
  • テクストが語りだすような翻訳は、次はこうくるなと読者に思わせる(池内氏)
  • 声が聞こえてくるテクストしか自分は訳せない(柴田氏)
  • 文学はとてもとてもとてもとても大事なもの(中村氏)
  • 途上国の文学を世界に伝えたい(中村氏)
  • 微妙なことが見えてくると、逆に翻訳に悩んでしまう(沼野氏)
  • 詩の訳で注意すべきことは、韻のリズムを訳文に無理矢理写し取ることではない、なぜそのように押韻されているか、その意味を理解してそれを訳文に反映させることだ(池内氏)
  • 日本語の文章のリズムは句読点によって作られる(柴田氏)
  • 読者は句読点から次の句読点の間まで息をしないで読む。その呼吸のリズムが文章のリズムだ(堀江氏)
  • 読者に想像させる余地のある翻訳が良い(発言者不明)
  • 少し古い言葉を使うと翻訳の雰囲気が変わる(発言者不明)
  • 日本語としてところどころ違和感があるくらいがいい(柴田氏)


ex) "poor pig"をどう訳出するか
(1)「気の毒なぶた」→単純な訳し方で日本語として少し違和感があるが、このように訳したほうが良いこともある。状況次第。
(2)「ぶたも気の毒になあ」→いかにも日本語的すぎて文章の持つ微妙なニュアンス、曖昧さが失われてしまうこともある。
他にもなぜ外国文学をするのか?という質問や、文学の持つ役割とは何か?という普遍的な問題にもパネリストの方々は真剣に議論していた。すげえな、と思った。その場にいることができて本当に良かった。
予定時間時間を少し過ぎたところでシンポジウムは終了した。既に構内は暗かったが、周りのレンガ調の建物は妙に印象的にそびえ立っていたのがわかった。